きなこは私が13年くらい前に早期のがんが発見された頃に家に来ました。
当時まだ1歳にもなっていないきなこ色のマンチカン(雌)です。私の病気の件と家猫の寿命(13歳~16歳くらい)を合わせてカミさんに「パパときなこはどっちが長生きするかなあ」とブラックジョーク的に言われたのを覚えています。
きなこは4歳の時に腎臓が悪い事が解り、その後は数日に1回病院に連れて行く生活になりました。その後私のがんは早期発見で治療がうまく行き完治していました。きなこが来た当時は夜会食などに出かける事が多く、きなこは私にはあまりなついていませんでした。きなこから見た家族での序列は一番面倒見ているかみさんが一番、優しい長男が2番、あと長女と次男がその次で私は最下位でした。たぶんたまに来る親戚のおじさんくらいの位置づけかと。猫を飼うと言葉が猫語になりますね。かみさんが帰ってくる時「にゃんにゃん!きなこにゃん!」と言って家の階段あがってくるので、友達が来ていると恥ずかしいと長男が話していたのを覚えています。
コロナ禍になって、会社での働き方がリモートワーク中心になりました。家族はすでに長女が結婚し、長男が一人暮らしを始めて、日中私ときなこと二人きりの事も多くなりました。私が食事をあげたり、たまにはトレイの掃除もしたりして、少しずつ距離が近づいていったような気がします。「ちゃんと面倒見ればきなこだって見ているんだから解るんだよ!」とかみさんが言っていました。人間と同じで優しく接し続ければ理解してくれるという事ですね。
私が家で仕事していて気分転換したい時、「きなこーにゃんにゃん!」と言って、リビングに行って、きなこの顔見て頭なでるのが習慣になりました。仕事で悩んでる時などは、きなこに相談していましたね。「きなこ、どう思うかにゃん」」とじっと目を見てると「そんな事は自分で考えにゃん!」と言われてる気がして。
子ども達があまり家にいなくなって、かみさんと二人の時間が増えるとなんだか距離感が難しくなる事もありますが、きなこがクッション的な役割を果たしてくれていました。かみさんもきなこに「パパはこうなんだって!」と、あえてきなこを通してコミュニケーションとったりしていました。
かみさんがテニスの遠征でいない事が年に数回あるのですが、そんな時はいつも長男が来てくれます。私と次男だけだときなこに関する面倒が心配なようで。長男もきなこに会いに来れるのは楽しみのようでした。
結婚して九州にいる長女のみらいと孫ふたりもきなこをオンラインで見せたりしていました。きなこは家族にとって、すごく大きな役割を果たしてくれていたなと思います。
きなこは3か月位前からだいぶ具合悪くなり。ここ最近はご飯もあまり食べられない状態になっていました。そんな中かみさんがテニスの遠征で4日くらいいない日があって、その間なんとか持って欲しいなと思っていました。かみさんが遠征から帰ってきて2週間くらいご飯食べさせるために、毎日みんなで交代で病院に連れていっていました。そしてきなこは旅立ちました。
きなこが亡くなった日はかみさんが1時間くらい出かけていて、私が家で一人で仕事していました。いつものようにリビングにきなこの様子を見に行くと、横に倒れていて、息はしているみたいですが反応がありません。急いで家族ラインでみんなに状態を送りました。かみさんが帰ってきて、やさしくきなこの体にふれて、一瞬反応して目をあけた様ですが、そのまま静かに逝きました。
かみさんの帰りを、頑張ってちゃんと待っていたような気がします。
小さい頃から病気だったけど、天寿をまっとうしたし、きなこ頑張ったね。
今までありがとう。感謝しかありません。
今は亡くなったペットを火葬してくれる車が自宅まで来てくれるサービスがあり、かみさんが事前に調べていたようです。夜火葬車の機械の前で、みんなで見送って、骨を拾いました。今はかみさんが寝てる屋根裏部屋にきなこのお骨はいます。
きなこがいない生活にまだ慣れません。朝起きると「きなこにゃん!」と言って、つい探してしまいます。そしていない事に気づいて、ちょっと凹みます。まあ時間が解決するしかない事は解っていますが。
きなこは人間の言葉を話せないから、幸せだったかどうかを直接確認する事はできませんが、家族として13年近くに家にいて、私たちにとっては間違いなく価値のあるにゃん生だったと思います。きなこ、生まれてきてくれてありがとう。
なんだかきなこのいない家はモノクロ感がありますが、いつかはまた天然色になれるようにと思っています。
■萩原 張広 Profile
株式会社エムエム総研代表取締役CEO。株式会社リクルートにて法人営業、営業マネージャーとして7年のキャリアを経て、株式会社エムエム総研を設立。法人営業のコンサルティングサービスを大手IT企業やベンチャー企業に向けて多数提供。1998年、ニューヨークでの視察経験から日本でのBtoBマーケティングの必要性と可能性を感じ、業態をBtoBマーケティングエージェンシーとする。以降、数百件のマーケティングプロジェクトに関わる。