お通夜の会場に着くと、缶ビールを片手に人懐っこい笑顔が遺影として飾られていて、元気?飲み行く!って、思わず声をかけそうになりました。日常的に何十年も一緒にいた友人だったので亡くなった事に現実感が持てません。
Hさんとは、リクルート時代に同じオフィスで働き、私が営業でHさんが制作マンでした。お互いに社長になった後も、子供達を連れて、6年続けて一緒にキャンプに行っていました。以前は、今は同じくがんで闘病中の社長のSさんと一緒に、共通の友人が経営する六本木の居酒屋で、仕事、家族、遊びいろんな話を朝まで語り合っていました。HさんもSさんも私もその居酒屋を経営するYさんも、みんな大学に行ってない創業社長でちょっと負けず嫌いみたいな共通点があって、楽しい時間でした。
私とHさんは10年程前に一度がんになって、互いに早期発見だったため治療に成功して、元気になり、その後もよく飲んでいました。そんな彼から1年半ほど前に別な場所のがんになったと連絡を受け、闘病の推移についても聞いていました。彼はFacebookにも闘病日誌を上げていて、大変そうだなと思っていると、夜に電話がかかって来て「はぎちゃん、六本木いる?」と言われて会って飲んでいました。抗がん剤の治療を止めたと言う話を聞いたのは半年くらい前だと思います。そんな状況なので、私も多少なりとも覚悟していました。
そんな中私もがんの定期検査を受けていたのですが、直近の検査の数値が高く再発して転移の可能性もあるという事で、さらに詳しい検査する事になりました。全身のMRIと骨転移の検査をして、その結果が翌週に出るというタイミングでHさんの悲報が届きました。
自分のがん再発の不安とHさんが亡くなった事が重なり、気持ち的に大きなダメージを受けた状態でお通夜に参加しました。Hさんのお通夜の1週間後大きな不安の中、検査の結果を聞きにいくと、私の体には結果的にがんの所見はどこにもみつからず、数値はまだ高いので3か月後に再度検査する事になりました。自分の中ではほっとして、少し落ち着ける時間がほしく、病院の後八王子で一人でうなぎ屋さんに行きました。そこで亡くなったHさんの事や自分が大丈夫だった事、まだ闘病中のSさんの事など考えていました。その時突然携帯に電話がきて、闘病中のSさんが亡くなったと連絡をもらいました。瞬間、いろんな事が重なり過ぎて自分の気持ちをどう持ってよいのか整理ができない感じになりました。
Hさんのお通夜から10日後、出席者も共通の友人が多い中で、Sさんのお通夜に参加しました。Sさんは、Hさんに負けずよい男で、遺影はスーツ姿でちょっと気取ってるけど、ネクタイは微妙に緩めて、少し不良っぽい感じも出して彼らしいなあと思いました。Sさんの会社は一緒に創業した高専時代の親友のKさんが社長として引き継いでおり、以前私は誘われて彼らの会社の社員旅行に香港に一緒に行った事があります。Sさんと当時副社長だったKさんとの二人の、信頼感あるけど少し緩い感じが一緒にいてとても楽しかったです。現社長になった親友のKさんがお通夜の最後のスピーチで、「Sは最後まで生きようとしていました」と、涙こらえながら話すのを聞くのが辛かったです。まだ55歳でした。
親しい年下の友人二人が先に逝ってしまい、自分自身はがんの検査でぎりぎり生き残った様に感じて。お通夜の帰りの電車の中で、彼らと過ごした時間をいろいろと思い出し、一人涙してしまいました。どう見てもお通夜帰りの恰好なので回りの乗客の方には理解してもらえたような気はしています。
以前日本の戦争映画で見た戦争の生き残りの人ってこんな感覚なのかなって。一緒に戦った友人たちが死んで行って、生き残った事には意味があるのではと考えて、戦後の日本を創っていったのかなと。自分の中でそういった状態を受け入れて、整理するのに少し時間がかかりましたが、私にはまだやるべき事がある、生かされている事に感謝して、残された時間を懸命に生きねばと思うようになりました。自分には会社・事業があり、仲間も家族もいて、美味しいものもまだ食べられる。彼らにはそういう事もなくなって、きっと悔しい思いもたくさんあったと思います。
アロハシャツ来て、足を崩して優しい笑顔で飲み続けるHさん、ビールばかり飲んで自分で頼んだ、から揚げ食べずにタバコ吸っているSさん、目をつぶると彼らの笑顔がいっぱい出てきます。いつかはあっちにいって、彼らと一緒に楽しいお酒を飲みたいと思いますが、それまで頑張って生きて行きたいと思います。
⇒次の記事はこちらから
■萩原 張広 Profile
株式会社エムエム総研代表取締役CEO。株式会社リクルートにて法人営業、営業マネージャーとして7年のキャリアを経て、株式会社エムエム総研を設立。法人営業のコンサルティングサービスを大手IT企業やベンチャー企業に向けて多数提供。1998年、ニューヨークでの視察経験から日本でのBtoBマーケティングの必要性と可能性を感じ、業態をBtoBマーケティングエージェンシーとする。以降、数百件のマーケティングプロジェクトに関わる。